考題索引

日本にほん文化ぶんか

第一章だいいっしょう 日本にほん起源きげん

第一節だいいっせつ 日本人にほんじん形成けいせい言語げんご

いち日本にほん列島れっとう日本人にほんじん

太古たいこ日本にほん列島れっとう ユーラシア大陸たいりくひがし海上かいじょうに、弧状こじょう日本にほん列島れっとうがある。いまからやく1万年前まんねんまえ更新世こうしんせい氷河期ひょうがきまで、日本にほん列島れっとうきたがシベリアと、みなみ中国ちゅうごく大陸たいりくとつながっていて、南北なんぼくから人間にんげんやナウマンぞうなどの動物どうぶつ大陸たいりくからわたってきている。氷河期ひょうがきわって海面かいめん上昇じょうしょうすると、日本にほん列島れっとう大陸たいりくはなされて、現在げんざいかたちになっていった。

日本人にほんじん祖先そせん 考古学上こうこがくじょうでは、日本にほん列島れっとう最古さいこ住人じゅうにん更新世こうしんせい時代じだいまでさかのぼる。このころの住人じゅうにん縄文人じょうもんじん祖先そせんではないかとかんがえられているが、くわしいことはかっていない。大体だいたいは、ユーラシア大陸たいりく南方なんぽう太平洋たいへいよう諸島しょとうなどの南方系なんぽうけい祖型そけいになっているだろう。日本人にほんじん風習ふうしゅうは、農耕のうこう儀礼ぎれい太陽神たいようしん崇拝すうはい婚姻こんいん形態けいたいなどで南方系なんぽうけい要素ようそつよいからである。ただし、遺伝子いでんし研究けんきゅうでは北方系ほっぽうけい起源きげんではないかとされている。このように日本人にほんじん出自しゅつじはよくからない。しかし、北方系ほっぽうけい南方系なんぽうけいとの混血こんけつであることは、間違まちがいないだろう。

日本語にほんご起源きげん

日本語にほんご来歴らいれき 言語学上げんごがくじょうでは、日本語にほんご孤立こりつ言語げんごとされている。文法ぶんぽうめんでは、西にしアジアからきたアジアに分布ぶんぷするアルタイ語族ごぞくぞくしているらしい。しかし一方いっぽうで、音韻おんいんめんでは台湾たいわんから東南とうなんアジア、太平洋たいへいよう諸島しょとうひろがるオーストロネシア語族ごぞくとの関係かんけい指摘してきされていて、統一とういつされた学説がくせつ存在そんざいしていない。結局けっきょくところ日本語にほんご由来ゆらいがよくからないのである。

学習がくしゅうポイント

1. 縄文じょうもん弥生時代やよいじだい土器どき生活せいかつ

2. 邪馬台国やまたいこくについて

3. 中国ちゅうごくから日本にほんつたわった文化ぶんか

4. 大和朝廷やまとちょうてい古墳こふん氏族しぞく文化ぶんか

第二節だいにせつ 縄文時代じょうもんじだい文化ぶんか

いち縄文じょうもん土器どき

旧石器きゅうせっき 日本にほん最古さいこ文化ぶんかとされるのが、旧石器時代きゅうせっきじだいである。1949(昭和しょうわ24)ねん群馬県ぐんまけん岩宿いわじゅく遺跡いせきで、更新世こうしんせい末期まっき地層ちそうから打製石器だせいせっき発掘はっくつされた。これによって、日本にほんにも旧石器時代きゅうせっきじだい存在そんざいしたことがあきらかになった。

縄文じょうもん土器どき特徴とくちょう 日本にほん発見はっけんされた最古さいこ土器どきは、紀元前きげんぜん1まん5000ねんごろのものである。中国ちゅうごく湖南省こなんしょうからは紀元前きげんぜん1まん8000ねんという世界せかい最古さいこ土器どき発見はっけんされている。日本にほん大陸たいりく地続じつづきだったころに、人類じんるい土器どき一緒いっしょにやってきたのかもしれない。このころの土器どきには、なに模様もようがない。しかし、紀元前きげんぜん1万年まんねんごろから、模様もようがつけられている。このころから紀元前きげんぜん3世紀せいきごろまでの土器どきは、縄目なわめ装飾そうしょくほどこされているので、縄文じょうもん土器どきんでいる。この縄文じょうもん土器どき使つかっていた時代じだい縄文時代じょうもんじだいである。

縄文じょうもん土器どき粘土ねんどひもげてつくられていて、600〜800ねつかれている。だから、くろずんだいろをしていて、もろい土器どきである。後期こうきになると、甕形かめがた壺形つぼがたなどの様々さまざまかたちのものがつくられるようになった。こうした土器どきは、おも食物しょくもつ保存ほぞん料理りょうり使つかわれていたらしい。

縄文時代じょうもんじだい生活せいかつ

縄文時代じょうもんじだい生計せいけい また、縄文時代じょうもんじだいのものとして、石槍いしやり石斧せきふ石鏃せきぞくなどの磨製石器ませいせっき発見はっけんされている。そして、べたかいなどをてた貝塚かいづか縄文時代じょうもんじだい特徴とくちょうで、このころの日本人にほんじんは、採集経済さいしゅうけいざいいとなんでいたのである。

ただし、縄文時代じょうもんじだい晩期ばんき発見はっけんされていて、稲作いなさくがもうはじまっていることがかっている。こめ中国ちゅうごく南部なんぶから九州きゅうしゅう地方ちほうつたわったとかんがえられている。ただし、このころは低湿地ていしっちつくった湿田しつでんで、灌漑施設かんがいしせつつような大規模だいきぼ水田すいでんは、つぎ弥生時代やよいじだいにならなければ出現しゅつげんしない。

縄文人じょうもんじん 発掘はっくつされた人骨じんこつによると、成人せいじん平均へいきん死亡しぼう年齢ねんれいは30さいほどであった。また、頻繁ひんぱん飢饉ききんにあったようで、きるだけで大変たいへん時代じだいだったようである。縄文人じょうもんじん地面じめんげて、そのうえ屋根やねをかけた竪穴住居たてあなじゅうきょんでいた。きわめてまずしい生活せいかつであったため、貧富ひんぷ身分みぶんべつはなかったようである。装飾品そうしょくひんである玉飾たまかざりや黒曜石こくようせきなどの分布ぶんぷから、すでに日本にほん列島れっとう各地かくちで、かなりひろ範囲はんい交易こうえきがあったことがかっている。

縄文時代じょうもんじだい信仰しんこう 集落しゅうらくからは環状列石かんじょうれっせきなどの祭祀さいしおこなったあと発見はっけんされている。当時とうじ信仰しんこうは、森羅万象しんらばんしょう霊魂れいこん存在そんざいするとかんがえる原始的げんしてきなアニミズム(精霊信仰せいれいしんこう)であったらしい。祭祀さいし利用りようしたとおもわれる土偶どぐうという土製どせい人形にんぎょう発見はっけんされている。また、死者ししゃ埋葬まいそうでは、抱石葬ほうせきそうおこなわれていた。これは死霊しりょう復活ふっかつしないようにしたのではないかとおもわれる。こうしたアニミズムや死体したいへの嫌悪感けんおかんは、のち日本にほん土着どちゃく信仰しんこうである神道しんとうへと発展はってんしていったとかんがえられる。

第三節だいさんせつ 弥生時代やよいじだい

いち弥生やよい土器どき

縄文じょうもんから弥生やよいへ 紀元前きげんぜん3世紀せいきごろから2世紀せいき前後ぜんごまでを弥生時代やよいじだいという。ただし、縄文文化じょうもんぶんかから弥生文化やよいぶんかへの移行いこうは、九州きゅうしゅう地方ちほうからはじまり、次第しだいひがしひろがっていく。だから、東北とうほく地方ちほう北海道ほっかいどうでは5世紀せいきから7世紀せいきごろまで縄文文化じょうもんぶんかつづいている(続縄文ぞくじょうもん文化ぶんか)。また、沖縄おきなわでは貝類かいるいなどを採集さいしゅうする独特どくとく文化ぶんかおこなわれていた。

弥生やよい土器どき特徴とくちょう 弥生やよい土器どき縄文じょうもん土器どきちがって、1000くらいの高温こうおんかれたうすくてかたいもので、薄茶色うすちゃいろである。装飾そうしょくはあまりなく、簡単かんたん幾何学的きかがくてき模様もようほどこされているだけである。かたちととのったものになっていって、おそらくは回転台かいてんだい使つかって作成さくせいしている。縄文じょうもん土器どきくらべて、簡素かんそではあるが、技術水準ぎじゅつすいじゅん向上こうじょうしているのである。

弥生人やよいじん こうしたあたらしい文化ぶんかは、中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうからやってきた北方系ほっぽうけい人間にんげんってきたものだとかんがえられている。縄文人じょうもんじん人種的じんしゅてき南方系なんぽうけいであったが、弥生やよいは、その縄文人じょうもんじんあらたにやってきた北方系ほっぽうけいとの混血こんけつだとかんがえられるからである。ただし、民族みんぞく交替こうたいするほどの変化へんか確認かくにんされていないし、中国ちゅうごく史書ししょにも記録きろくされていない。

弥生時代やよいじだい生活せいかつ

弥生時代やよいじだい生計せいけい この弥生時代やよいじだいには水稲耕作すいとうこうさく普及ふきゅうし、採集経済さいしゅうけいざいから農耕経済のうこうけいざいへとわっていった。静岡県しずおかけん登呂遺跡とろいせきでは大規模だいきぼ水田すいでん遺跡いせき発見はっけんされており、後期こうきになると鉄器てっきなども利用りようされている。青銅器せいどうき祭祀さいし道具どうぐであったようだが、具体的ぐたいてき意味いみかっていない。なお、日本にほんには、青銅器せいどうき鉄器てっきおなじころに伝来でんらいしたようである。だから、青銅器せいどうき実用じつよう工具こうぐとしては、ほとんど使つかわれていない。

弥生時代やよいじだい集落しゅうらく 初期しょき平地へいちつくられたが、のちになると、丘陵きゅうりょう高地性こうちせい集落しゅうらく環濠集落かんごうしゅうらくつくられていった。これは軍事的ぐんじてき性格せいかくつよく、弥生時代やよいじだい後期こうきには戦乱せんらんがあったとかんがえられている。有名ゆうめい遺跡いせきとして、佐賀県さがけん吉野よしの遺跡いせきである。丘陵きゅうりょうつくられていて、祭祀さいし使つかわれたらしい建造物けんぞうぶつ中心ちゅうしんつくられた環濠集落かんごうしゅうらくである。こめなどの食物しょくもつ高床倉庫たかゆかそうこ貯蔵ちょぞうしていたようで、現在げんざいつたわる伊勢神宮いせじんぐう神明造しんめいづくりりや出雲大社いずもたいしゃ大社造たいしゃづくりりは、この高床倉庫たかゆかそうこ発展はってんしたものとされている。

弥生時代やよいじだい信仰しんこう 日本にほんまつりには農耕儀礼のうこうぎれい関係かんけいするものがおおく、稲作いなさく普及ふきゅうとともに形成けいせいされていったともかんがえられる。日本にほん異称いしょう瑞穂みずほくに」は、「いねゆたかにみのくに」という意味いみである。埋葬方法まいそうほうほう全国的ぜんこくてきには伸展葬しんてんそうであるが、九州きゅうしゅう北部ほくぶではかめつぼ遺体いたいれる甕棺墓かめかんぼつくられている。甕棺かめかんなかには副葬品ふくそうひんとして銅鏡どうきょうやガラスたまなどがれられている場合ばあいもあり、貧富ひんぷ身分みぶんがあったことがかる。

第四節だいよんせつ 邪馬台国やまたいこく建国伝説けんこくでんせつ

いち邪馬台国やまたいこく

古代こだい記録きろく 日本にほんについての記録きろくは、中国ちゅうごくの『論衡ろんこう』や『山海経せんがいきょう』にえるのが最古さいこである。このころの日本にほんは「」とばれていたらしい。『論衡ろんこう』などによると、古代こだい倭人わじん周王朝しゅうおうちょう薬草やくそうなどをけんじていたらしい。中国ちゅうごくえつひとならんでかれていることから、古代こだい中国ちゅうごくでは、日本にほん中国ちゅうごくちかくにある南国なんごくだとおもわれていたようである。

また、『後漢書ごかんじょ東夷伝とういでんによると、57ねんに「倭奴国わのなのくに」の使者ししゃがやってきて、光武帝こうぶてい印綬いんじゅさずけている。この印綬いんじゅは、1784(天明てんめい4)ねん福岡県ふくおかけん志賀島しかのしまから発見はっけんされた「漢委奴国王かんのわのなのこくおういんだとされている。

このころから、中国ちゅうごくひがしにあるということがかっていたようで、朝鮮半島ちょうせんはんとう楽浪郡らくろうぐん海中かいちゅうにあるとかれている。また、統一国家とういつこっかではなく、100以上いじょうちいさなくにがあったらしい。

邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこ 『三国志さんごくし魏志ぎし東夷伝とういでん倭人わじん記述きじゅつを、日本にほんでは「魏志倭人伝ぎしわじんでん」とんでいる。そこにえがかれている日本にほん姿すがた紹介しょうかいしよう。

2世紀せいき後半こうはん倭国大乱わこくたいらんというおおきな戦乱せんらんつづいた。そこで諸国しょこく女王じょおう共立きょうりつして内乱ないらんおさめた。これが邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこである。卑弥呼ひみこ巫女みこであり、鬼道きどうによって政治せいじおこない、おとうと補佐ほさしていた。卑弥呼ひみこは239ねん使者ししゃおくり、「親魏倭王しんぎわおう」の称号しょうごうたまわった。卑弥呼ひみこ

のちおとこおうになると、ふたた内戦ないせんになったので、卑弥呼ひみこ親族しんぞく壹与いよ女王じょおうにした。

邪馬台国やまたいこく論争ろんそう 邪馬台国やまたいこく場所ばしょが、大和やまとにあったのか、それとも九州きゅうしゅう地方ちほうにあったのかが、日本にほん古代こだい史上しじょう最大さいだいなぞである。議論ぎろん活発かっぱつであるが、近年きんねんでは大和説やまとせつ有力ゆうりょくになっている。また、卑弥呼ひみこ正体しょうたいも、7だい孝霊天皇こうれいてんのう皇女こうじょ倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめ有力視ゆうりょくしされている。事績じせき類似るいじしていることや、倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめはかとされている箸墓古墳はしはかこふんが、年代ねんだい規模きぼてん卑弥呼ひみこはか一致いっちしているからである。

邪馬台国やまたいこく風習ふうしゅう 魏志倭人伝ぎしわじんでんによると、おとこみな刺青しせいをしていて、人々ひとびとみなしゅなどをからだっていた。ふくぬのむすんでいただけで、かみおとこっていたが、おんなはざんばらがみだった。また、大事だいじなことはうらないによってめていた。非常ひじょう土俗的どぞくてき生活せいかつであるが、しかし一方いっぽうで、治安ちあんく、人々ひとびと性質せいしつ素直すなおで、80さい以上いじょう長命ちょうめいのものもいた。また、葬礼そうれいでは、10にちほど哭泣こっきゅうし、そしてにくべず、周囲しゅういひとさけんだり歌舞かぶをしていた。

倭人わじん風習ふうしゅうなかくのは、礼儀作法れいぎさほうとして、倭人わじん柏手かしわでっていたことである。この風習ふうしゅう現在げんざいでも神社じんじゃ参拝さんぱいするとき作法さほうとしてのこっている。

古代こだい伝承でんしょう

神武天皇じんむてんのう 日本にほん初代しょだい天皇てんのうは、神武天皇じんむてんのうという。『日本書紀にほんしょき』や『古事記こじき』にえがかれる日本にほん建国神話けんこくしんわは、つぎとおりである。

伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみことという夫婦神ふうふしんが8つのしまんだ。日本にほん別称べっしょう大八島おおやしま」は、この8つのしまのことである。この二人ふたりんだ太陽神たいようしん天照大神あまてらすおおみかみは、高天ヶ原たかまがはらという神々かみがみ世界せかいんでいた。地上ちじょうおさめるため、まご瓊瓊杵尊ににぎのみこと高千穂たかちほ現在げんざい宮崎県みやざきけん)にくだらした。これを天孫降臨てんそんこうりんという。神武天皇じんむてんのう瓊瓊杵尊ににぎのみこと曾孫そうそんとしてまれた。日本にほん西端せいたんである九州きゅうしゅうではうまく全土ぜんど統治とうちできないので、ひがしうつることにした。苦戦くせんかさねるが、神々かみがみ助力じょりょくもあって、つい大和やまとはいることに

成功せいこうした。そして、紀元前きげんぜん660ねん正月しょうがつに、大和やまと橿原かしはら即位そくいした。これを神武東征じんむとうせいという。

これは伝承でんしょうであり、現在げんざい歴史学れきしがくでは、9だい開化天皇かいかてんのうまでは非実在説ひじつざいせつつよい。日本にほん建国けんこくについて、具体的ぐたいてきなことはからないという、今後こんごあきらかにすることはむずかしいだろう。

倭建命やまとたけるのみこと 日本人にほんじん美意識びいしきとして、「ほろびの美学びがく」がげられる。日本にほん史上しじょう英雄えいゆうばれる人物じんぶつは、みな悲劇的ひげきてきおおい。こうした悲劇的ひげきてき英雄像えいゆうぞうは、倭建命やまとたけるのみこと伝説でんせつはじまる。ここではより説話的せつわてきである『古事記こじき』の倭建命やまとたけるのみこと伝説でんせつてみよう。

倭建命やまとたけるのみことは、12だい景行天皇けいこうてんのう皇子おうじとして誕生たんじょうした。もともとの名前なまえ小碓命おうすのみことである。武勇ぶゆうひいでていたが、あることからあにころしてしまったために、ちち景行天皇けいこうてんのうきらわれてしまった。そして、小碓命おうすのみことは、九州きゅうしゅう熊襲建くまそたける征伐せいばつするようめいじられて、こまってしまった。そこで叔母おば天照大神あまてらすおおみかみまつ女性皇族じょせいこうぞく)の倭姫命やまとひめのみこと相談そうだんした。すると倭姫命やまとひめのみこと小碓命おうすのみこと女性じょせいふくあたえた。そこで小碓命おうすのみこと女装じょそうして熊襲建くまそたける宴会えんかいしのみ、熊襲建くまそたけるころした。熊襲建くまそたけるまえ小碓命おうすのみこと武勇ぶゆう賞賛しょうさんして、自分じぶん名前なまえたける」を小碓命おうすのみこと献上けんじょうした。こうして小碓命おうすのみこと倭建命やまとたけるのみことばれるようになった。

そののち倭建命やまとたけるのみこと西国さいごく平定へいていして大和やまともどり、弟橘比売おとたちばなひめ結婚けっこんした。しかし、すぐに東国とうごく平定へいていめいじられた。倭建命やまとたけるのみことは「ちち自分じぶんころそうとしている」とってかなしみ、ふたた倭姫命やまとひめのみこと相談そうだんした。そこで倭姫命やまとひめのみことは、天叢雲剣あめのむらくものつるぎという神剣しんけんふくろわたした。相模さがみ現在げんざい横浜県よこはまけん)でてきだまされてほのおかこまれたときふくろけるといしがあった。そこで天叢雲剣あめのむらくものつるぎくさって、けててきころすことに成功せいこうした。これ以後いご天叢雲剣あめのむらくものつるぎを「草薙剣くさなぎのつるぎ」という。

そののちふね上総かずさ現在げんざい千葉県ちばけん)に途中とちゅううみかみあらしこし、ふねすすめなくなった。そこでつま弟橘比売おとたちばなひめおっとたすけるために入水じゅすいするとうみしずかになり、7日後にちご弟橘比売おとたちばなひめくし海岸かいがんながいた。倭建命やまとたけるのみことつまかなしみながらも東国とうごく平定へいていして、尾張おわり現在げんざい愛知県あいちけん

き、そこで美夜受媛みやずひめ結婚けっこんする。倭建命やまとたけるのみこと草薙剣くさなぎのつるぎ美夜受媛みやずひめあずけ、伊吹山いぶきやまかみ素手すで征伐せいばつしようとしたが、かみによって大氷雨だいひょううらされて、倭建命やまとたけるのみこと病気びょうきになってしまい、故郷こきょう大和やまともどろうとした。しかし、途中とちゅう力尽ちからつき、大和やまとしたうたんでからいききとった。そして、倭建命やまとたけるのみことしろとりになって、大和やまと方向ほうこうんでいった。

こうした伝説でんせつ大和朝廷やまとちょうてい東西とうざい平定へいていしていくとき、そこで活躍かつやくした複数ふくすう人間にんげん業績ぎょうせき一人ひとりにまとめたものではないかとわれている。

三種さんしゅ神器じんぎ 説話中せつわちゅう登場とうじょうする草薙剣くさなぎのつるぎは、現在げんざい愛知県あいちけん熱田神宮あつたじんぐう神体しんたいである。これと三重県みえけん伊勢神宮いせじんぐう神体しんたいである八咫鏡やたのかがみ皇居こうきょにある八尺瓊勾玉やさかにのまがたまが、三種さんしゅ神器じんぎである。これは天孫降臨てんそんこうりんときに、天照大神あまてらすおおみかみ瓊瓊杵尊ににぎのみことあたえたものである。かがみつるぎ複製品ふくせいひん皇居こうきょかれており、三種さんしゅ神器じんぎ保有ほゆうするものが正当せいとう天皇てんのうとされていて、現在げんざい皇居こうきょ賢所かしこどころ奉納ほうのうしてある。

第五節だいごせつ 古墳時代こふんじだい

いち大和朝廷やまとちょうてい

大王おおきみ 日本にほん大和やまと中心ちゅうしんにして、九州きゅうしゅうから関東地方かんとうちほうにかけて統一とういつされていった。この統一政権とういつせいけん大和朝廷やまとちょうていで、大和朝廷やまとちょうてい大王おおきみのち天皇てんのう)を頂点ちょうてんとした、豪族ごうぞく連合政権れんごうせいけんであった。

氏姓制度しせいせいど 大和朝廷やまとちょうていによる統一とういつすすんでいくと、政治体制せいじたいせい整備せいびされていく。そのひとつが、氏姓制度しせいせいどである。

うじ」とは、男系だんけい血縁関係けつえんかんけいによる名前なまえで、一族いちぞく統領とうりょうである氏上うじのかみ中心ちゅうしんとした同族集団どうぞくしゅうだんである。「うじ」は葛城かつらぎ蘇我そがのように地名ちめいからったものもあれば、物部もののべ軍事ぐんじ祭祀さいし担当たんとう)、中臣なかとみ祭祀担当さいしたんとう)、忌部いんべ祭祀担当さいしたんとう)のように職能しょくのうからったものもある。

かばね」とは家柄いえがらあらわ称号しょうごうで、「おみむらじ」というものもある。「おみ」とは葛城かつらぎ蘇我そがなどの有力豪族ゆうりょくごうぞくで、「むらじ」は物部もののべ大伴おおともなどの職能しょくのう朝廷ちょうていつかえているものをす。さらに「おみ」「むらじ」の

有力者ゆうりょくしゃは「大臣おおおみ」「大連おおむらじ」に任命にんめいされて、中央ちゅうおう国政こくせい担当たんとうした。

なお、「おみ」は始祖しそ皇族こうぞく、「むらじ」は始祖しそかみということになっている。つまり豪族連合ごうぞくれんごうであった大和朝廷やまとちょうていは、共通きょうつうする神話大系しんわたいけいによって連結れんけつしていたのである。

ところで、日本にほん天皇てんのういま姓氏せいしたず、ひがしアジア社会しゃかいなかでは独特どくとくである。これは、そもそも日本にほんでは天皇てんのうが「氏姓しせい」をあたえる存在そんざいだったからである。

古墳こふん

前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 3世紀せいきごろから6世紀せいきにかけて、大和朝廷やまとちょうてい勢力圏せいりょくけん巨大きょだい墳墓ふんぼつくられていった。そこで古墳時代こふんじだいんでいる。古墳こふん形状けいじょう様々さまざまだが、代表的だいひょうてきなのは前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである。

前方後円墳ぜんぽうこうえんふん巨大きょだいなものがおおく、最大さいだいのものは5世紀せいきつくられた仁徳天皇陵にんとくてんのうりょう大仙古墳だいせんこふん)で、面積めんせきだけなら世界最大せかいさいだいはかわれる。遺体いたい後円部こうえんぶ埋葬まいそうされていて、前方部ぜんぽうぶ祭祀さいしおこなった場所ばしょだとわれるが、くわしいことはかっていない。

こうした巨大きょだい古墳こふんは、古代こだい天皇てんのう皇族こうぞくはかとされている。だから、発掘はっくつ調査ちょうさ禁止きんしされているので、実際じっさいにはだれはかであるかは不明ふめいであるものがおおい。

埴輪はにわ 古墳こふん副葬品ふくそうひんとして、埴輪はにわという土器どき有名ゆうめいである。埴輪はにわ形状けいじょうは、人型ひとがた武器型ぶきがた馬型うまがた家型いえがたなどが様々さまざまある。こうした土器どきは、初期しょき弥生土器やよいどき延長えんちょうである土師器はじきであったが、中期以降ちゅうきいこう朝鮮半島ちょうせんはんとうから伝来でんらいした須恵器すえきわっていった。須恵器すえき灰色はいいろかたいのが特徴とくちょうである。

さん大陸文化たいりくぶんか伝来でんらい

帰化人きかじん 大陸たいりくから日本にほんにやってきて土着どちゃくした人々ひとびと帰化人きかじん渡来人とらいじん)という。こうした人々ひとびとによって様々さまざま大陸文化たいりくぶんか日本にほんにもたらされた。

漢字かんじ この古墳時代こふんじだい漢字かんじ伝来でんらいしたらしい。『日本書紀にほんしょき』によると応神天皇おうじんてんのう(4-5世紀せいき?)の時代じだいに、朝鮮半島ちょうせんはんとう百済くだらから王仁わにという学者がくしゃが『論語ろんご』と『千字文せんじもん』をつたえたという。

なお、日本にほんにおける最古さいこ漢字使用例かんじしようれいは、埼玉県さいたまけんから出土しゅつどした稲荷山古墳いなりやまこふん出土しゅつど鉄剣てっけん銘文めいぶんである。紀年きねんから471ねんとされている。所有者しょゆうしゃであった乎獲居をわけという人物じんぶつつかえていた獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみとは、雄略天皇ゆうりゃくてんのう(5世紀せいき)とされている。また、始祖しその「意富比垝おおひこ」は8だい孝元天皇こうげんてんのう皇子おうじ大彦命おおひこのみこと」との関係かんけい指摘してきされている。基本的きほんてき漢文かんぶんしるされているが、人名じんめい音訳おんやくしている。

機織はたおり 『日本書紀にほんしょき』にはほかにも、やはり応神天皇おうじんてんのうとき中国ちゅうごく地方ちほうから機織はたおりがやってたという記述きじゅつがある。日本にほん民族衣装みんぞくいしょうである着物きものを「呉服ごふく」ともいうのは、これが理由りゆうである。

文責ぶんせき黒田秀教くろだひでのり

台日たいにち比較ひかく

新石器時代しんせっきじだい台湾たいわん日本にほん

台湾たいわん更新世こうしんせいのころまでは大陸たいりく地続じつづきだった。このころに人類じんるい大陸たいりくからわたってきたらしい。旧石器文化きゅうせっきぶんかぞくする台湾たいわん最古さいこ長浜文化ながはまぶんかでは、打製石器だせいせっき骨角器こっかくき発見はっけんされている。

新石器時代しんせっきじだい十三行文化じゅうさんこうぶんか円山文化えんざんぶんか紀元前きげんぜん2800-ぜん500ごろ)と、時代じだい大体だいたいおな日本にほん縄文文化じょうもんぶんかとをくらべてみよう。

まず、台湾たいわんほうさき金属器きんぞくき使つかっていた。また、中国ちゅうごく貨幣かへい発見はっけんされていて、文明化ぶんめいか台湾たいわんほうさきだったらしい。また、稲作いなさくなどの農耕文化のうこうぶんかも、台湾たいわんさきだったようである。これは中国ちゅうごくとの位置関係いちかんけい理由りゆうだろう。とうアジア社会しゃかいでは、日本にほんもっと辺境へんきょうにある。古代こだい中国ちゅうごく日本にほんとの往来おうらいには、きびしい航海こうかい必要ひつようであった。そのため中国大陸ちゅうごくたいりく文明ぶんめい日本にほんつたわるのは、最後さいごになりやすい。

しかし一方いっぽうで、よくてんおおい。たとえば風葬ふうそう抜歯ばっし土製どせい人形にんぎょうなどの習俗しゅうぞくである。もちろん、こうした原始的げんしてき習俗しゅうぞく世界中せかいじゅうられるものだが、当時とうじすでに中国大陸ちゅうごくたいりくではおこなっていない。

また、貝塚かいづかなどの古代こだいのゴミ興味深きょうみぶかい。島国しまぐにでは、うみ産物さんぶつ食料しょくりょうとして重要じゅうようになのである。

確認かくにんしてみよう】

いちつぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

1. 縄文時代じょうもんじだいは(a. 農耕経済のうこうけいざい b. 貨幣経済かへいけいざい c. 狩猟経済しゅりょうけいざい)が主体しゅたいで、土器どき食料しょくりょう保存ほぞんしていた。

2. 弥生時代やよいじだいには(a. 青銅器せいどうき b. 鉄器てっき c. 石器せっき)が道具どうぐとして利用りようされていた。

3. 邪馬台国やまたいこく女王じょおうである卑弥呼ひみこは(a. 鬼道きどう b. 法律ほうりつ c. 軍事力ぐんじりょく)によって政治せいじおこなっていた。

4. 漢字かんじは(a. 縄文時代じょうもんじだい b. 弥生時代やよいじだい c. 古墳時代こふんじだい)にはすでに日本にほんつたわっていた。

5. 古墳時代こふんじだいには(a. 須恵器すえき b. 弥生土器やよいどき c. 縄文土器じょうもんどき)が使つかわれていた。

つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

6. 日本にほん列島れっとうは(   )のころは大陸たいりく地続じつづきで、このころ人類じんるい様々さまざま動物どうぶつがやってきた。

7. 邪馬台国やまたいこくについて記述きじゅつしている(   )は、古代こだい日本人にほんじん風俗ふうぞくるための貴重きちょう資料しりょうである。

8. 前方後円墳ぜんぽうこうえんふんには巨大きょだいなものがおおいが、最大さいだいのものは(   )である。

9. 全国ぜんこく統一とういつしていった大和朝廷やまとちょうていは(   )を頂点ちょうてんにしていた連合政権れんごうせいけんであった。

10. 古墳こふん副葬品ふくそうひんとして、人型ひとがた馬型うまがたなどの様々さまざま形式けいしきつ(   )という土器どき有名ゆうめいである。

さんつぎ文章ぶんしょうみ、自由じゆうこたえなさい。

11. 縄文土器じょうもんどき弥生土器やよいどきとのちがいについてまとめてみよう。

12. 古代こだいにおける中国ちゅうごく日本にほんとの交流こうりゅうについてまとめてみよう。

13. 古代日本こだいにほんでの印綬いんじゅについてまとめてみよう。

14. 大和やまととは、もともとはいま奈良県ならけん地域ちいきのことであった。しかし、日本にほん異称いしょうにもなっているのはどうしてなのか。

15. うじかばねとのちがいについてまとめてみよう。

参考文献さんこうぶんけん

岡村道雄おかむらみちお縄文じょうもん生活誌せいかつし日本にほん歴史れきし01)』、講談社こうだんしゃ、2000ねん10がつ

寺沢薫てらさわかおる王権誕生おうけんたんじょう日本にほん歴史れきし02)』、講談社こうだんしゃ、2000ねん12がつ

熊谷公男くまがいきみお大王おおきみから天皇てんのうへ(日本にほん歴史れきし03)』、講談社こうだんしゃ、2001ねん1がつ

吉村武彦よしむらたけひこ日本社会にほんしゃかい誕生たんじょう日本にほん歴史れきし【1】)』、岩波書店いわなみしょてん、1999ねん9がつ

黒板勝美くろいたかつみ更訂こうてい 国史こくし研究けんきゅう 各説上かくせつじょう』、岩波書店いわなみしょてん、1932ねん

辻善之助つじぜんのすけ日本文化史にほんぶんかし 第一巻だいいっかん 上古じょうこ奈良時代ならじだい』、春秋社しゅんじゅうしゃ、1969ねん10がつ

宮崎博史みやざきひろし神道史概説しんとうしがいせつ』、そうよう、2000ねん2がつ